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ソーシャル電通人 #005(前篇)

ソーシャル電通人 #005
小野寺理一郎 電通 第4CRプランニング局 クリエーティブディレクター 声を届けつづける。揺るぎなき東北への思い。

東北に暮らす人びとの小さな「声」を届ける展覧会「メッセージ3.11」をつづける小野寺理一郎さんに、活動をスタートしたきっかけや今後の展望、震災の記憶の「風化」について聞きました。

――震災直後は、どのようなことを考えましたか?

多くのみなさんと同じだと思いますが、非常に混乱しながらいろいろなこと考えました。直後のひと月くらいは、大げさにいうと、生き方とか家族との関係、仕事とか、当然すぐには結論を出すことのできない問いであり、その一方で、東日本で、想像もつかないような苦境に立たされている人が大勢いらっしゃるので、漠然とですが、何かしなければいけないっていう気持ちが日に日に大きくなっていくような状況でしたね。

東日本大震災が起こるまでは、いわゆるボランティアとかプロボノにはまったく意識が向いていませんでした。いま思うと本当に申し訳ないのですが、阪神・淡路大震災のときも近しい人が被災したというようなこともなかったので、「大変だな」という思いはありましたけど、何かしなくては、という気持ちにはならなかったんですよね。

東日本大震災のとき、僕自身には物理的なダメージはほとんどなかったわけですが、精神的にショックを受けたという体験は大きいと思います。会社のビルの37階にいて、大きく揺れました。立ってはいられるのですが、壁とか、固定されたものにつかまっていた。自分の部の部員の安否を確認する一方、自宅と連絡がつかない状況で、本当に心配でした。とんでもないことが起こっているという思いのなか、横浜まで8時間歩きました。あの体験には強烈なインパクトがありました。

――どんなことがきっかけで、東北でのボランティア活動をはじめることになったのですか?

震災後しばらくのあいだは、友人たちががれきの撤去や炊き出しのボランティアに通っているという話を聞きながら、僕も何かしたいなって思っていました。4月の終わり頃でしたか、昔いっしょに仕事をしていた並河進君から、ユニセフによる震災関連のポスターとリーフレットの制作を頼まれたんです。

避難所には、震災のショックで母乳が出なくなって授乳をあきらめている母親がたくさんいて、粉ミルクも届かない状況にありました。母乳が出なくなる主な要因は精神的なストレスなのですが、あきらめずにマッサージしたりするとまた出るようになるらしいんです。また、避難所も混乱しているので、母親たちが落ち着いて授乳できるプライバシーが確保されたスペースもない。そこで、被災されたお母さんと赤ちゃんを守るために、非常時の授乳に関する知識の理解を図るリーフレットと、「避難所にも授乳しやすい環境をつくろう」と呼び掛ける啓蒙ポスターをつくることになったのです。完全にボランティアの仕事で、赤ちゃんのためにも一刻も早く仕上げなければいけませんから、週末の3日くらいで急いで制作しました。

当時ボランティアというと、がれき撤去や食料などの物資輸送が多かったのですが、このポスターとリーフレットの制作を通じて、自分がいま持っている能力やスキルを生かせるような場面がいずれ出てくるんじゃないかなって思ったんです。

――雄勝町の被災者のためにアルバムを制作されたのには、どのような経緯があったのですか?

5月に入って、被災地はいまどうなっているのか、何かできることはないかとか、情報交換会をやろうということになり、ボランティアに通っている仲間が集まったんです。

そのなかで、がれき撤去のボランティアに通うあるカメラマンが、「最近、被災された方の写真を撮りはじめた」というんです。当初はシャッターを押せるような状況ではなかったのですが、被災地の人たちと親しくなってくると、「ふだんは何やってんの?」みたいな話になって、「実はプロのカメラマンなんです」っていうと、「撮って欲しい」と頼まれるようになったそうです。何もかも流されてしまいましたから、家族や自分の写真もない。もちろん写真どころじゃないという人もいらっしゃるわけですが、なかには「撮って欲しい」という人もいて、写真を撮ってプリントを差し上げているというのです。

彼の話を聞いて、1枚ずつの写真だけではなく、避難所の生活をテーマにみなさんの写真をたくさん撮って、1冊のアルバムにまとめるのはどうだろう、いずれ避難所から出ていくわけですから、「卒業アルバム」的なものをつくるのはどうかなと思ったんですね。

そして、知り合いの平林克己さんというカメラマンにアルバムの企画を話したところ、やろうということになり、「もう一度アルバムをプロジェクト」という名前をつけて動きはじめました。アルバムよりも優先すべきことがあるんじゃないかとか、仲間たちとも議論を重ね、最終的には賛否両論でしたが、10名弱の仲間たちと、とにかくやってみようということになりました。

まずは、平林さんが石巻に向かいました。石巻市飯野川の避難所で、避難所のリーダーや避難所を管理する法務省の方を通じて、「アルバムをつくりたいのだけれどもどうだろうか」と避難所で暮らす方々に聞いていただいたところ、「全員ではないが、撮って欲しいという人はいる」ということでした。やはり、「震災を早く忘れたい」「この生活を忘れたい」という人もいれば、助け合いながら家族同然のような仲になって、この先散り散りになったときにも「連絡を取り合いたい」というような関係ができた人たちもいて、アルバムをつくって欲しいという人たちの存在が確認できたんです。

飯野川の避難所で暮らす人たちの7割くらいが石巻の東にある雄勝町出身の人たちだったので、まとまりやすかったのでしょうね。ばらばらの地域からいろいろな人が集まっている大きな避難所だったら、むずかしかったかもしれません。

当初は、好評だったら何か所かの避難所でもアルバムをつくろうと話していたのですが、やりはじめてみたら、簡単にできるものではないことがわかりました。1日や2日ではとうてい撮りきれませんし、雄勝町のアルバムだけでも、延べ日数で20日間くらいかかっていると思います。写りたくない人が写っていたらまずいですから、1枚1枚丹念にチェックするのにも相当の時間がかかりました。僕らも本業の合間に活動をしますので、2011年5月から写真を撮りはじめ、アルバムを配ることができたのは12月になってからのことでした。

――東北の小さな声を届けよう!「メッセージ3.11」をはじめることになるきっかけを教えてください。

できあがったアルバムを雄勝町のみなさんに届けに行ったのですが、その頃はみなさん仮設住宅に移られていましたので、移られた先を一軒一軒回りました。最初は2日で配りきろうと考えていましたが、ぜんぜん間に合いません。僕らも時間との戦いなのでどんどん配って回りたいのですが、届けに行くと、「よく来た、久しぶり」「ちょっとお茶でも」ということになって、避難所を出てどういうことになっているとか、いまこんなことを思っているとか、それぞれにいろいろな話をお聞きしたのです。震災から半年以上経った11月くらいには被災地の報道も減っていて、一部では「復興は終わった、がれきも片付いた」というような見方もあったのですが、現実はぜんぜん違うんだなと知ることになったわけです。

東北の人たちが仮設住宅で何を思っているのか――彼らの声は、僕らも含め被災地以外の人びとにはまったく届いていない。一部のニュースやドキュメンタリー番組などで取り上げられる被災者の方はいらっしゃいますが、ごくふつうの何千、何万もの人たちの声はまったく届いていない。そうした小さな声にこそ真実がある、そう思ったときに、東北の人たちの声を東北の外の人びとに伝えることが、「僕らができる何か」かもしれないと思ったんですね。

それをいつもの仲間たちに相談したところ、「いいかもしれないね」という反応が返ってきたのですが、具体的にどうしたらいいのかはまだわかりませんでした。お金をかけずにできることはないものかと考えあぐねていたとき、ちょうどカメラマンの平林さんが「写真展をやりたい」といい出したんです。

彼はがれき撤去のボランティアの合間に、被災地の朝日を撮っていました。見渡す限りがれきだらけなのに、空だけは青くて、そこに朝日が昇ってくるのを見たときに、思わずシャッターを切っていたっていうんです。その写真を見てみたら、すごくよかった。仲間たちと、平林さんの撮った朝日の写真には何か伝わるものがあるんじゃないか、写真展もやりたいねということになっていきました。

被災地の声を届けたい、朝日の写真展もやりたいということなら、やっぱり展覧会がいいのかな。ネットでやるという手もあるけれど、ネットに誘引するためのお金はない。それなら、人が大勢集まるところで、声と写真や映像を展示するというかたちがあるんじゃないかと思ったんですね。つまり、東北に暮らす人たちの声が主役の展覧会ですね。このアイデアを平林さんに話したら賛成してくれて、平林さんの写真展との同時開催というかたちをとることにしたんです。

とりあえず企画書を書きはじめたのですが、僕らが伝えたいと思っていることがほんとに伝わるのだろうか、売名行為のように見られて本業に良くない影響を与えることはないかとか、いろいろと悩み議論しましたし、企画書を何度も書き直しました。

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