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ソーシャル電通人 #004(前篇)

ソーシャル電通人 #004
岡田 怜奈 電通 MCプランニング局 / 秋永 寛 電通 第4CRプランニング局悩んで、考えて、自分たちにできることにたどり着いた。

東日本大震災のあたらしい支援のカタチとして、南三陸町にある杉と工房の人と技術、そして東京のクリエーターが組んだ「TREE THREE」プロジェクト。東京から杉を使ったプロダクトのアイデアとデザインを提供し、現地でプロダクトを制作し、販売する。そのしくみの立ち上げからかかわる岡田さん、秋永さんに「はじまりといま」を聞きました。

――東日本大震災の頃はどんな感じでしたか?

(岡田)東日本大震災のとき、私はラジオ局の仕事をしていたんです。震災直後は、広告素材の差し替えや連絡で毎日夜中まで仕事をしていて、震災を現実のこととして感じる間もないっていうか、あんまり深く考えられない状態でした。

4月に研修がはじまって、私も秋永君も10年目から15年目くらいの社員を集めた社内研修の一期生としてミーティングやワークショップをやっていたんですけど、そのなかで「2011年3月以降にはじめるものは、すべて『震災後』っていうことを頭において考えなきゃいけない」という話があったんですね。

私自身、被災地でたくさんのボランティアが活動していることは知っていたけれど、自分ががれきを拾う作業をやると足手まといになりそうだなとか、いきなり1人で被災地に行くのも不安だしって思っていました。「やりたいけど、なにがやれるのかを考えるのはむずかしい」みたいなことを社内研修の仲間でも話をしていた頃に、昔から知り合いだった内野知研さんという方にばったり会ったんです。

――内野さんとの出会いがきっかけになったんでしょうか。

内野さんは、私がラジオ局に配属された当時、イベント関連の業務で電通に常駐されていて、お仕事を一緒にしたことはなかったんですけど、先輩たちといっしょにご飯を食べに行ったり飲みに行ったりする間柄だったんです。しばらくお会いしていなかったですけど、たまたま私が14階でちょっと考えごとしていたら、「なにやってんの?」って声を掛けていただいたんです。

内野さんは、震災後にNPOに入って南三陸を中心に支援活動をされているとそこで初めて知って、「私もなにかやりたいと思ってるんですけど、できなくて・・・・・・。内野さんすごいですよね」みたいな話をしていたら、「がれきを拾うとか、力仕事をすることだけが支援じゃなくて、現地にお金を落とすのだって支援なんだよ」っていってくれたんですね。

震災の前も内野さんは新潟で村おこしのサークル活動にかかわっていて、震災直後にサークル仲間が立ち上げた、被災者とNPOをつないで支える合同プロジェクトの「つなプロ」というNPOネットワークに参加して、南三陸町をはじめとする宮城県の北部エリアのマネージャーを務められていたんです。その内野さんから、「観光でもいいから、現地に行くことがまず大事だよ」「なんにもできなくていいから、お金持って来て」っていってもらって、だいぶハードル下がりました(笑)。

それで、「なんかしたいよね」っていってる研修の仲間たちと行こうと思って、フェイスブックで「南三陸にいっしょに行きませんか」って呼びかけたら、けっこうみんな「行きたい、行きたい」という感じになったんです。

 

――実際に南三陸に行かれたのはいつのことですか?

(岡田)内野さんにアテンドしていただいて最初に南三陸に行ったのが2011年の夏で、そのときは4人でした。それ以降計5回くらい、だいたい1泊2日で、研修のメンバー20人の半分以上が南三陸に行きました。

南三陸っておいしいものがいっぱいあって、民宿に泊まって、合宿みたいでたのしいんです(笑)。内野さんが現地にネットワークがあるので、営業を再開した民宿や山間部にある廃校を利用した宿泊施設を手配してくださって、車で現地のいろいろなところを案内していただきました。津波で流されてなんにもないところで、「ここにはなにがあった、こうだった」っていう話を、ポイントポイントで解説してくれるんです。本当にもうどこもかしこも原っぱみたいになっているので、もし自分たちだけだったら、そこになにがあって、なにが流されたとかってことはぜんぜんわからない。「もとからそうなのかな」って思ってしまうくらいなので。

被災した地域をまわってみると、まず1回ショックを受けます。同じように生活していた人たちがこんなことになってしまって、言葉にできないというか。なにができるかわからないっていうか・・・。あまりに壮大過ぎて、自分たちというより、まずは行政にかかわることのほうが大きいなと感じました。

――その時期はまだボランティアの方もいらっしゃいますよね。

私たちが行ったときは、もうひと通り大きながれきはまとめられていて、あとは個人の持ち物というか、小さな遺品などを拾うボランティアの方々がけっこうたくさん来られていて、学生さんも多かったです。学生のみんなはきちんとボランティアとして来ているのに、私たちは「大人がお金を落としに来た」みたいな感じです(笑)。ボランティアセンターで「今日はこれこれをしてください」っていわれて動くのが一般的なボランティアの方々なので、私たちは「なにしに来たの?」っていう感じなのですが、内野さんのおかげで、被災した方々に震災のときのことも聞かせていただくことができました。

私たちが泊まった民宿は、そこだけ取り残されたというか、流されなかったので、震災直後からしばらく、道路が寸断されて支援の物資も来なかった時期に、自分たちの財産をなげうって生き残った人たちの面倒をみていたそうです。

こういう話って、メディアや人を通して聞くのと、生の声を直接聞くのとではぜんぜん違うなと思いました。でも、自分がそこでなにができるかっていうのはまたむずかしい問題で、できることもありそうだけど、なにができるのかなっていうモヤモヤした状態のまま、1年ぐらい過ぎてしまいました。

――それから、プロジェクトが立ち上がるまではどうだったのですか?

(岡田)ちょうど震災から1年たったころ、内野さんから「せっかく電通の人とつながりができたから、ちょっと相談したいことがある」といわれたんです。相談は2つあって、1つは南三陸は林業が盛んで、南三陸の杉はブランドだったのですが、その間伐材や津波で塩害を受けた杉を使ってなにかできないかということ。もう1つは、南三陸町の入谷地区はかつて養蚕で栄えた地域で古い着物がたくさんあるので、それを使ってなにかできないかということでした。

相談を受けて、研修のメンバーをはじめ、たき工房(当時)のデザイナーの前川雄一さんやアートディレクターの西岡範敏さんにも加わっていただいて、みんなでなにか考えましょうということになったんです。たまに集まっては、ああでもない、こうでもないみたいな話を何度もしたのですが、あるとき、着物はぜんぶ柄が違うから一定のクオリティでプロダクトをつくるのには向いていないかも、「着物はやめて杉に絞ろう」と決めたんです。でも、実際にどういうかたちで支援すればいいのかがむずかしくって。なにをやってもおせっかいのような気がして、けっこうみんなで悩んで、考えました。

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